安心して生活できる暖かで家庭的な女性専用・男性専用グループホーム
「笑顔」それは「幸せや喜びを感じたときに見せる表情」
自分がそうでした。
乗れなかった自転車に乗れるようになった。食べられなかった野菜が食べられるようになった。
周りの人からサポートをしていただき出来るようになった。すごくうれしかった。自信がついた。前向きになった。気が付いたら笑顔だった。
今度はサポートする側になって困っている人たちの手助けをし笑顔を増やしてゆきたい。
地域に根ざし利用者様もスタッフも全ての方が笑顔で幸せになるよう
利用者様が社会で生きて行ける自分になることをスタッフ一丸となってサポートして行きます。
「笑顔」それは「幸せや喜びを感じたときに見せる表情」
自分がそうでした。
乗れなかった自転車に乗れるようになった。食べられなかった野菜が食べられるようになった。
周りの人からサポートをしていただき出来るようになった。すごくうれしかった。自信がついた。前向きになった。気が付いたら笑顔だった。
今度はサポートする側になって困っている人たちの手助けをし笑顔を増やしてゆきたい。
地域に根ざし利用者様もスタッフも全ての方が笑顔で幸せになるよう
利用者様が社会で生きて行ける自分になることをスタッフ一丸となってサポートして行きます。
会社名 | 株式会社 夢笑カンパニー |
---|---|
代表取締役 | 小林浩 |
設立 | 2021年 |
会社所在地 | 〒390-1102 長野県東筑摩郡朝日村小野沢286 |
にこにこパンダの家 住所 |
〒390-0814 長野県松本市本庄2-10-25 |
事業内容 | 障害者グループホームの運営 |
代表挨拶
代表の小林浩(こばやしひろし)と申します。
当事業を始めるに至った経緯、私の考え方、目指すビジョンについてお話させてください。
私は野球人生50年間、サラリーマンとして30年間、独立して8年間、運がいいのか、ツキがあるのか、チャンスを多くいただけて、やることなすこと上手くいってきました。サポートしてくれた周囲の方には本当に感謝しています。
思い返せば50年前、小学校6年生のときにテレビで夏の甲子園を見て、「松商学園に行きたい!」と思ったことが野球を本気で取り組んだきっかけでした。
松商学園に入ることを目指して野球も勉強も頑張りましたが、中学卒業時に顧問に「お前には無理だろう、ベンチにも入れないぞ」と言われるレベル。
しかし無理だと言われると頑張れる性格で「どうしてもそこに行きたいんだ」と伝えたところ、その顧問も周囲のみんなも応援してくれて、何とか願いが叶いました。
大学まで思う存分野球をやらせてもらったので、卒業後は地元の朝日村に帰ってきて、以降40年間、小学生の野球の指導者をしています。
仕事の面では、大学卒業後にサラリーマンとしてメーカーの営業職に。楽しみながら全国を飛び回り、徐々に成績も上がり、やがて部署を任されるようになりました。
取引先や部署メンバーからとの信頼も築け、日々充実しており、順風満帆な中、妻が突然病気になってしまったのです。
「これまで上手くいっていたので、私に与えられた試練だな」そう思ったことを覚えています。
妻の看病のため、出張はおろか出勤も難しくなり、会社を辞めることになりました。その時も会社は色々な面でサポートしてくれました。
「自分の時間でできる仕事はないか」そんなことを考えて探しているときに出会ったのが、今本業で営んでいる襖や障子の張り替えの仕事です。
元々、お客さん先に出向く仕事、人と話す仕事は好きだったし、なんだかピンと来たので、フランチャイズの看板をいただき、独立して始めることになりました。
実際にやってみると、地域の人との繋がりができ、信頼関係ができ、また仕事がもらえて、上手くいくようになりました。
着実に収益も増え、妻の体調も回復し、お金にも心にも余裕が生まれてきたある時、ふと思ったのです。
「体力が必要なこの仕事はあと10~15年は続けられない。野球に関われるのもあと数年が限界だろう。体力がなくなったあとも誰かに貢献し続ける仕事がしたい。」
そこから「自分には地域のために何ができるだろうか」と日々考え続け、たどり着いたのが障害福祉です。
実は身内に発達障害の疑いがあったことがあり、そこに思い悩む親族の葛藤を見てきたことも大きなきっかけとなっています。
これまでは「従業員に迷惑を掛けたくない」という考えで、どれだけ仕事が増えても、雇用だけはしてきませんでした。
これからは一緒に事業を作っていくメンバーを雇用し、チームを作り、地域に必要とされる障害福祉サービスを提供していきたいと考えています。
利用者もスタッフも、少しずつ成長して、自分に自信がついて、「次はこんなことしたい」「こんなことやってみたい」という大きな夢、小さなやってみたいが生まれる場を作りたいと考えています。
どうせ生きていくなら毎日楽しくありたい。
それはただワイワイすることではなく、時には辛いことも、苦しいことも、逃げずに受け止め、乗り越え、前向きになっていく。そこで生まれる笑顔、本当の楽しさ、それを味わってもらいたい。
「株式会社 夢笑カンパニー」という会社名にはそんな願いが込められています。
私が部下だった時代には、中には嫌な上司、困った上司、理不尽な上司、上からな上司、色々な上司がいて、「自分が上の立場になってもそうはならないぞ」と思ったものです。
実際に上司の立場になってからもその考えは変わらず「全部ちゃんと聞くから何でも言ってくれ」と常にメンバーに伝えていました。
おかげで仕事のことからプライベートのことから相談してきてくれて、部下から飲みに誘ってくることも多々あり、結婚式の仲人まで頼まれました。今でも当時のメンバーは連絡をくれる仲です。
私が部下だったとき、「思ったことを言えない」というのが最もストレスでした。障害福祉事業で集まるメンバーにもそうは思って欲しくありません。
経営や運営に正解はありませんから、みんなが思ったことを何でも言い合うことで、より可能性が広がると信じています。
そんな私の考え方に共感いただけるようでしたら、是非一緒に働いて、この地域になくてはならない「夢が生まれる場所」を作っていきましょう。
当事業を始めるに至った経緯、私の考え方、目指すビジョンについてお話させてください。
私は野球人生50年間、サラリーマンとして30年間、独立して8年間、運がいいのか、ツキがあるのか、チャンスを多くいただけて、やることなすこと上手くいってきました。サポートしてくれた周囲の方には本当に感謝しています。
思い返せば50年前、小学校6年生のときにテレビで夏の甲子園を見て、「松商学園に行きたい!」と思ったことが野球を本気で取り組んだきっかけでした。
松商学園に入ることを目指して野球も勉強も頑張りましたが、中学卒業時に顧問に「お前には無理だろう、ベンチにも入れないぞ」と言われるレベル。
しかし無理だと言われると頑張れる性格で「どうしてもそこに行きたいんだ」と伝えたところ、その顧問も周囲のみんなも応援してくれて、何とか願いが叶いました。
大学まで思う存分野球をやらせてもらったので、卒業後は地元の朝日村に帰ってきて、以降40年間、小学生の野球の指導者をしています。
仕事の面では、大学卒業後にサラリーマンとしてメーカーの営業職に。楽しみながら全国を飛び回り、徐々に成績も上がり、やがて部署を任されるようになりました。
取引先や部署メンバーからとの信頼も築け、日々充実しており、順風満帆な中、妻が突然病気になってしまったのです。
「これまで上手くいっていたので、私に与えられた試練だな」そう思ったことを覚えています。
妻の看病のため、出張はおろか出勤も難しくなり、会社を辞めることになりました。その時も会社は色々な面でサポートしてくれました。
「自分の時間でできる仕事はないか」そんなことを考えて探しているときに出会ったのが、今本業で営んでいる襖や障子の張り替えの仕事です。
元々、お客さん先に出向く仕事、人と話す仕事は好きだったし、なんだかピンと来たので、フランチャイズの看板をいただき、独立して始めることになりました。
実際にやってみると、地域の人との繋がりができ、信頼関係ができ、また仕事がもらえて、上手くいくようになりました。
着実に収益も増え、妻の体調も回復し、お金にも心にも余裕が生まれてきたある時、ふと思ったのです。
「体力が必要なこの仕事はあと10~15年は続けられない。野球に関われるのもあと数年が限界だろう。体力がなくなったあとも誰かに貢献し続ける仕事がしたい。」
そこから「自分には地域のために何ができるだろうか」と日々考え続け、たどり着いたのが障害福祉です。
実は身内に発達障害の疑いがあったことがあり、そこに思い悩む親族の葛藤を見てきたことも大きなきっかけとなっています。
これまでは「従業員に迷惑を掛けたくない」という考えで、どれだけ仕事が増えても、雇用だけはしてきませんでした。
これからは一緒に事業を作っていくメンバーを雇用し、チームを作り、地域に必要とされる障害福祉サービスを提供していきたいと考えています。
〇目指すこと
目指すのは「夢が生まれる場所」利用者もスタッフも、少しずつ成長して、自分に自信がついて、「次はこんなことしたい」「こんなことやってみたい」という大きな夢、小さなやってみたいが生まれる場を作りたいと考えています。
どうせ生きていくなら毎日楽しくありたい。
それはただワイワイすることではなく、時には辛いことも、苦しいことも、逃げずに受け止め、乗り越え、前向きになっていく。そこで生まれる笑顔、本当の楽しさ、それを味わってもらいたい。
「株式会社 夢笑カンパニー」という会社名にはそんな願いが込められています。
〇私とスタッフとの関係について
私はサラリーマン時代、上司もたくさんいましたし、自分自身が上司として部下もたくさんいました。私が部下だった時代には、中には嫌な上司、困った上司、理不尽な上司、上からな上司、色々な上司がいて、「自分が上の立場になってもそうはならないぞ」と思ったものです。
実際に上司の立場になってからもその考えは変わらず「全部ちゃんと聞くから何でも言ってくれ」と常にメンバーに伝えていました。
おかげで仕事のことからプライベートのことから相談してきてくれて、部下から飲みに誘ってくることも多々あり、結婚式の仲人まで頼まれました。今でも当時のメンバーは連絡をくれる仲です。
私が部下だったとき、「思ったことを言えない」というのが最もストレスでした。障害福祉事業で集まるメンバーにもそうは思って欲しくありません。
経営や運営に正解はありませんから、みんなが思ったことを何でも言い合うことで、より可能性が広がると信じています。
そんな私の考え方に共感いただけるようでしたら、是非一緒に働いて、この地域になくてはならない「夢が生まれる場所」を作っていきましょう。